この動画は
哲学者の小林康夫氏を招き、
「存在とは何か」
「実存とは何か」
という深遠な問いについて、
同氏の著書
『君自身の哲学へ』
を紐解きながら
対話形式で考える
「未来に残したい授業」
のライブ配信アーカイブです。
小林氏が語る「存在」の本質と、
人生における哲学の役割について、
以下のポイントでまとめられています。
1. 「存在とは何か」という問いそのものが答え
存在とは何かという問いに対し、
学術的な定義
(アリストテレスやハイデガーの解説など)
を並べることは、
本当の意味での「存在」への答えではありません。
小林氏は、
「存在とは何か?」と問うているその瞬間、
その問い自体が答えであると述べます。
それは普遍的な正解があるものではなく、
一人ひとりが自分の人生において
「切実な問題」として向き合うべきものだからです。
2. 「にもかかわらず、自由である」という希望
人間は、
生まれ持った環境、
時代、家族、
身体的な制約など、
自分ではどうにもできない
「過酷な条件」に縛られています。
しかし、哲学の究極の希望は、
「あまりに過酷な条件を引き受けつつ、
しかし自らの存在がその本質において
喜びであることを知る(できる)こと」
にあります。
何不自由ないから自由なのではなく、
不自由な境遇にある「にもかかわらず」、
知ることも考えることも
どこまでも自由であるという認識が、
存在を肯定する力になります。
### 3. 「名刺」ではなく「動詞」の哲学
哲学はしばしば難しい
「名刺(概念)」を使って武装し、
権威的になりがちです。
しかし小林氏は、
誰でも知っている
「動詞(つくる、うごく、いのる)」を通じて
哲学をすることを提唱します。
何か壮大なものを作る必要はありません。
一輪の花を選ぶこと、おにぎりを選ぶこと、
あるいは自分の考えを言葉にしてみること。
それら「いかなる理由もない純粋な選択」の中に、
自分自身を救い出す「自由」と「真理」が宿っています。
### 4. 自分を救う義務
哲学の本質は、
他者から与えられたシステム
(宗教など)にすがるのではなく、
「自分で自分を救う」ことにあります。
自分を救うこと以上に、
この地上で果たすべき義務はないと小林氏は語ります。
自分が自分自身の存在を「愛おしい」と思えるか。
それは自分の子供を無条件に愛おしいと思う感覚を、
自分自身に対しても持てるかという問いでもあります。
5. 人生を超えた「存在」
私たちの人生(キャリアや社会的な属性)は、
私たちの存在のすべてではありません。
71年の歴史や
今の身体的な限界を超えたところに
「存在」という問題の核心があります。
言葉で即座に答えが出るものではありませんが、
その問いを持ち続けること自体に意味があり、
死ぬ間際の一瞬に
「これだったのか」
と気づくような、
そんな特別な瞬間のために哲学はあるのです。
結論
存在とは、
固定された概念ではなく、
流動的でカオスなものです。
しかし、
過酷な現実の「にもかかわらず」、
自分自身の意志で何かを選び、
自分を愛おしみ、
問い続ける自由があること。
それが、小林康夫氏が提示する
「生きられる哲学」としての希望です。
この動画は
哲学者の小林康夫氏を招き、
「存在とは何か」
という問いの第2弾として、
「他者との関係性」
「承認」
「孤独」
をテーマに対話した
ライブ配信のアーカイブです。
小林氏の著書
『存在の冒険』
や
『君自身の哲学へ』
の内容に触れながら、
私たちが社会の中で
どのように「自己」を形成し、
他者と向き合うべきかが語られています。
1. 「存在の冒険」:自分だけの意味を探す旅
小林氏が25歳の時に書いた
修士論文のタイトルが『存在の冒険』でした。
存在とはあらかじめ決まった意味があるものではなく、
リスクを負いながら自分だけの意味を
「冒険」して探し続けていく
プロセスそのものを指します。
詩人ボードレールのように、
過酷な人生の中でも
自らの存在を表現し続ける姿勢に、
存在の真実が見いだせます。
2. 社会的承認と「術語」の鎧
私たちは社会の中で
「アイ・アム・〇〇(私は弁護士です、母親です、など)」
という「術語(レッテル)」を競い合って獲得し、
それで安心しようとします。
社会的な「承認」なしには、
このシステムの中で
自分の存在を実感することが難しくなっています。
しかし、
それは存在そのものではなく、
社会的に条件づけられた記号に過ぎません。
3. 神なき時代の「アート」と「行為」
かつては「神」
という絶対的な存在との関係だけで
自己の存在を担保できましたが、
現代はその保証がありません。
その代わりとなるのが
「芸術(アート)」や「行為(do)」です。
誰かに言われたからではなく、
また社会的な利益にならなくても、
「せざるを得ないこと」
(書く、歌う、花を植えるなど)
を純粋な喜びとして行う時、
人は他者の承認を超えたところで
自分の存在に触れることができます。
4. 自己の柔軟性と「ブリコラージュ」
自己とは固定された実体ではなく、
日々作り変えられ、変容していくものです。
小林氏はこれを、
あり合わせの道具で新しいものを作る
「ブリコラージュ(寄せ集め細工)」や
「遊び」に例えます。
自分を特定のイメージに縛り付けず、
柔軟に組み替えていく自由こそが、
存在の自由です。
5. 「存在」への慎ましい眼差し
日本の若者の自己肯定感が低いのは、
一律の基準で振り分けられ、
レッテルを貼られる教育システムに
原因があるのではないかと指摘します。
存在を「肯定(承認)」しようと力むのではなく、
ただそこに愛おしい子供がいる、
あるいは一輪の花が咲いているのを見て微笑むような、
「慎ましい眼差し」
で存在を見つめることが大切です。
結論
存在とは、
未来や目的のために
今を犠牲にすることではなく、
「今、ここにある自分」
を忘れないことです。
他者からの承認という条件付きの価値に惑わされず、
自分なりの「存在の冒険」を続けることが、
生きる意味を見出す道であると示唆されています。