- 2022/01/02
貫成人さんの著作
⇒https://amzn.to/4eWTTXH
この動画は、
20世紀を代表する哲学者
マルティン・ハイデガーが
その主著『存在と時間』において
何を問おうとしたのか、
その核心である「存在への問い」について
分かりやすく解説したシリーズの第1回目です。
1. ハイデガーの時代背景
現実感の喪失
1900年代のヨーロッパ(特にドイツ)は、
急激な近代化や工業化により、
人々が「現実感」を失い、
それを埋め合わせる思想を
渇望していた時代でした。
『存在と時間』の衝撃
1927年に発表されたこの本は、
当時の青年たちの心に強く響き、
哲学界に多大な衝撃を与えました。
2. 従来の哲学が扱ってきた「存在」の2つの問題
ハイデガー以前のヨーロッパ哲学では、
主に以下の2点が
「存在」に関する問いとして扱われてきました。
① 本質(何であるか)
あるものが他のものではなく、
それであるために必要な性質。
例:ペットボトルの本質は
「ポリエチレンテレフタレート製の容器」であり、
色や形は偶然の性質(偶性)に過ぎない。
② 存在(あるかないか)
そのものが現実に存在するかどうか。
例:「三角形」や「鬼」は
本質(定義)ははっきりしているが、
現実に(数学的な厳密さや物理的な実体として)
存在しているわけではない。
3. ハイデガーの新しい問い:「存在の意味」
ハイデガーは、
上記のような
「本質」や
「あるかないか」の区別だけでは、
最も肝心なことが見落とされていると考えました。
問いの核心
そもそも、存在者(存在しているもの)が
『ある』とか『存在している』
とはどういう意味なのか?
という、
存在そのものの意味を問いました。
存在者と存在の区別
存在者
人、道具、植物など、
この世に存在しているあらゆる個別のもの。
存在の意味
存在者が「存在している」ということ自体の意味。
これは、素材や目的、
あるいは存在の証拠
(プラトン、アリストテレス、デカルトの方法)
を語ることとは全く別の、
根源的な問いです。
4. 途方に暮れるハイデガー
ハイデガーは
この壮大な問いを立てたものの、
自分自身でも
「どこから手をつけていいか分からない」
と途方に暮れるほど難解な問題でした。
答えの地図も手がかりもない中で、
彼はあらゆる思考の試行錯誤を
繰り返していくことになります。
まとめ
ハイデガーの哲学は、
当たり前すぎて誰も問わなかった
「『ある』とはどういうことか?」
という問いに真っ向から挑んだものです。
この「存在の問い」を解き明かすために、
彼は「現存在(人間)」の分析へと進んでいきます。
この動画は、
ハイデガー哲学の出発点である
「現存在」と、
私たちが日常的に関わっている
「道具」の性質について解説した
シリーズの第2回目です。
1. 施索の出発点:「現存在(げんそんざい)」
ハイデガーは、
「存在とは何か」という問いを
解き明かすための手がかりとして、
私たち人間に注目しました。
定義
「現存在」とは、
私たち人間のことです。
人間は
「気づいたら既に現実に存在している」
(投げ出されている)
唯一の存在者であるため、
この言葉が使われます。
実存
自分がどのような存在であるかを
自ら決定していくあり方を指します。
2. 現存在の2つのあり方
現存在には、
大きく分けて2つのあり方があります。
① 本来性(ほんらいせい)
自分自身の本来のあり方を生きている状態。
② 非本来性(ひほんらいせい)
本来の自分を見失っている状態。
私たちの日常的な生活のほとんどは
この「非本来性」の状態にあります。
3. 日常生活と「道具」のネットワーク
非本来的な日常生活において、
現存在は常に「道具」を用いて
何かをしています。
道具の範囲
包丁や車などの人工物だけでなく、
畑、太陽光、海などの自然物も、
私たちが何かの目的のために利用する限り
「道具」として扱われます。
4. 道具の3つの特質
私たちが日常的に使っている道具には、
以下の3つの重要な特徴があります。
① 単独では機能しない(道具連関)
道具は常に他の道具や目的と繋がっています
(例:包丁はまな板があってこそ機能する)。
これを「道具連関」(どうぐれんかん)
または「目的手段連関」と呼びます。
② 注意の対象にならない
道具が正常に機能している間、
私たちは道具そのものを意識しません。
(例:タイピング中、意識は文章に向き、キーボードには向かない)
道具を意識するのは、
それが壊れた時だけです。
③ 世界は道具連関の総体である
私たちが住む「世界」とは、
これら無数の道具連関が
絡み合った全体のことです。
5. 「世界内存在(せかいないそんざい)」
現存在(人間)は、
生まれながらにして
この道具連関(世界)の中に
どっぷりと浸かっており、
そこから離れて存在することはできません。
定義
人間は常に「世界の中」にあり、
世界と切り離せない存在であることを
「世界内存在」と呼びます。
まとめ
ハイデガーは、
人間を「世界から切り離された独立した主体」
と捉える従来の哲学(デカルトなど)を批判し、
「人間は常に道具や環境との関わり合い
(世界)の中に最初から存在している」
という新しい視点を提示しました。
この動画は、
ハイデガーが痛烈に批判した
デカルトの思想について解説した
シリーズの第3回目です。
ハイデガーの「世界内存在」
という考え方を理解するために、
その対極にあるデカルトの
「主観・客観」の図式を紐解いています。
1. デカルトの出発点:「我思う、ゆえに我あり」
デカルトは、
全てを疑った末に、
どうしても疑い得ない
唯一の確実なものとして
「考えている自分自身の存在」
にたどり着きました。
方法的懐疑
自分以外の全ての存在
(世界、山、建物など)は、
夢や幻覚である可能性を排除できないため、
絶対確実とは言えません。
絶対確実な私
「自分は存在しないのではないか」
と疑っているその瞬間、
疑っている(考えている)
私自身の存在だけは否定できない、
という結論です。
2. 世界の復活と「大転換」
デカルトは一度「不確実」として退けた世界を、
自分自身の認識を通じて
再び「確実なもの」として復活させていきました。
しかし、
ここにはデカルト以前の哲学にはなかった
巨大な「逆転」が生じています。
デカルト以前
「世界」があるから、
その後に「私」が生まれた。
私は「世界の中」にいる。
デカルト以後
「私」が確実なものとして先にあり、
私の認識(確認作業)のおかげで
「世界」が存在する。
ゆえに、私は「世界の外」にいる。
3. 主観・客観図式の成立
この「逆転」によって、
近代哲学の基本となる
「主観・客観」の図式が成立しました。
主観(Subjectum)
世界の基礎にあり、
全てを支える「私(自我)」
客観(Objectum)
主観である私に対して、
認識や確認の対象として存在する「諸物や世界」
4. ハイデガーの批判のポイント
ハイデガーがデカルトを批判する理由は、
まさにこの
「人間を世界の外側に置き、
世界を認識の対象として固定化したこと」
にあります。
デカルトの図式では、
人間はまず「孤立した自我」として存在し、
後から世界を認識しますが、
ハイデガーは
「人間は最初から世界の中に
どっぷりと浸かって存在している」
(世界内存在)
と考え、
デカルトの前提そのものを覆そうとしました。
まとめ
デカルトの思想は、
人間を「世界の中心(主観)」に据えた
革新的なものでしたが、
それによって世界を単なる
「観察の対象(客観)」
にしてしまいました。
ハイデガーはこれに対し、
前回の動画で解説された
「世界内存在」という概念を対置させ、
人間と世界の本来の関わりを
取り戻そうとしたのです。
この動画は、
ハイデガーの
「世界内存在」という概念を深掘りし、
私たちが日常的に送っている
「非本来的なあり方」と、
そこにある
「交換可能性」について解説した
シリーズの第4回目です。
1. 世界内存在としての現存在
ハイデガーは、
人間(現存在)を
「世界から切り離された存在」ではなく、
最初から「道具連関(世界)」の中に
どっぷりと浸かっている存在
(世界内存在)であると定義しました。
実存・脱自
現存在は自分自身の外(道具連関)へと
向かうことによって存在しています。
これを「実存」や「脱自」と呼びます。
2. 「道具存在」とデカルト批判
ハイデガーは、
存在を2つの捉え方に分け、
デカルトを批判しました。
事物存在(デカルト的)
理性や認識を基礎に、
「それは本当にそこにあるか?」
と対象を眺める捉え方。
ハイデガーはこれを
「例外的な状況」
による不当な普遍化だと批判しました。
道具存在(ハイデガー的)
実践や行為を基礎に、
作業の中で関わっている道具としての捉え方。
日常的にはこちらが基本です。
3. 道具連関の最終目的と「配慮」
道具連関(目的と手段のネットワーク)において、
全ての行為の最終的な目的は
「現存在自身(私自身)」です。
暗黙の承知
私たちは一々
「自分のためだ」と考えながら
行動しているわけではありませんが、
暗黙のうちに
「自分の存在を維持するため」
に行為しています。
この自分自身の存在への目配りを
「配慮」と呼びます。
4. どんでん返し:現存在の「交換可能性」
自分のために行っている行為が、
最終的な「成果」や「果実」の段階で
他人に奪われたり、
誰かに取って代わられたりすることがあります。
「ひと(ダス・マン)」
道具連関の中での行為は、
原理的に「誰でも代わりが務まる」ものです。
このように、
匿名で交換可能な日常的なあり方を
「ひと」と呼びます。
5. 「かけがえのなさ」の喪失
日常は非本来性
私たちの日常(仕事、人間関係、肩書きなど)は
全て「交換可能」であり、
そこでは自分自身の
「取り替えの効かないかけがえのなさ」
を確保できません。
非本来的なあり方
この「誰でもいい存在」として生きている日常を、
ハイデガーは本来の自分を見失った
「非本来的なあり方」であると位置づけました。
まとめ
日常的な世界(道具連関)において、
私たちは「自分のため」に行動しながらも、
その実、
代わりがいくらでもいる
「ひと」として生きています。
この矛盾した状態から、
どうすれば
「かけがえのない本来の自分」
を取り戻せるのか?
その答えとして、
次回の「死」や
「かけがえのなさ」の議論へと繋がります。
この動画は、
現存在(人間)が日常の「誰でもいい自分(非本来性)」から、
いかにして「唯一無二の自分(本来性)」を見出すのか、
その鍵となる「死」の概念について解説した
シリーズの第5回目です。
1. かけがえのなさの根拠としての「死」
ハイデガーは、
現存在の「かけがえのなさ(交換不可能性)」は、
自分自身の「死」においてのみ実現されると考えました。
交換不可能性
自分の死を誰かに代わってもらうことはできません。
死は、各人が自分自身で引き受けるしかない唯一の事実であり、
平等に与えられた宿命です。
死への存在
人間は生まれた瞬間から死に向かっており、
ハイデガーは人間を「死へと向かう存在」と呼びました。
2. 人生は死によって完結する
現存在は、
生きている間は常に
「未決定な部分」
を残した不完全な状態です。
完結と消滅
人生がどのようなものであったかは、
最後の瞬間(死)を迎えて初めて
「全体」として完結します。
しかし、完結した瞬間にその存在は失われるという、
独特のパラドックスを持っています。
他との比較
道具などは完成した後も存在し続けますが、
人間は「存在し続けている間は不完全であり、
存在が失われることで完全(完結)となる」存在です。
3. 死の忘却と「ひと」の論理
私たちは自分が
「死へと向かう存在」
であることを日常的に忘れています(忘却)。
他人事としての死
「人はいつか死ぬ」と考える時、
その「人」は自分ではなく
「匿名的な誰か」を指しており、
自分の死からは目を背けています。
目的手段連関からの逸脱
日常の「道具連関」の中では、
全ての行為に目的(試験のため、旅行のため等)がありますが、
死だけはどのような目的や手段の枠組みにも回収できません。
4. 死の追い越し不可能性
死はリアルタイムで体験したり
振り返ったりすることができない(経験不可能)ため、
日常的な理解のあり方では捉えきれません。
理由のない存在喪失
「なぜ死ななければならないのか」
という問いに、
日常的な論理(目的や手段)で
答えを出すことは不可能です。
5. 前のめりの日常
私たちは死の可能性を隠蔽し、
常に未来に目的を立ててそれを追う
「前のめり」のあり方で日常を過ごしています。
死はこの「目的・手段」のネットワークを
根本から打ち砕くものであり、
日常的な論理で理解することは原理的に不可能です。
まとめ
ハイデガーによれば、
人間が「誰でもいい一人(ひと)」から抜け出し、
本当の意味で「かけがえのない自分」を意識できるのは、
自分にしか成し得ない「死」という事実に直面した時だけです。
次回の動画では、
この「死」という極限状態において
現存在がいかに本来性を取り戻すのか、
その具体的なプロセスの話へと続きます。
この動画は、
人間(現存在)がいかにして
日常の「誰でもいい自分(非本来性)」から抜け出し、
かけがえのない「本来の自分(本来性)」を取り戻すのか、
そのきっかけとなる
「良心」と「時間の捉え方」について解説した
シリーズの第6回目です。
1. 本来的なあり方へのきっかけ:「良心」
ハイデガーは、
日常的な「非本来性」から抜け出す原動力は
「良心」にあると考えました。
ハイデガー的良心
道徳的な規範ではなく、
自分の行為の選択を常にチェックし、
「それをしてはならない」
と呼びかけてくる沈黙の声です。
沈黙の他者の呼びかけ
自分の内側から聞こえますが、
自分自身の意思(主体)ではありません。
具体的な指示はせず、
単に「それは間違っている」と否定的に呼びかけることで、
本来のあり方へ目を向けさせます。
2. 時間で見る「非本来性」
日常的な(非本来的な)現存在は、
時間を「過去・現在・未来の集積」として捉えています。
過去
経験や因果関係の集積。
現在
目の前の目的(仕事や生活)に没頭している状態。
未来
希望や予測に基づく未来。
3. 時間で見る「本来性」
自分の存在に真摯に向き合う「本来性」の次元では、
時間の意味が全く異なります。
現在(本来性の喪失)
日常の活動に没頭せざるを得ないため、
現在において本来性は常に失われています(日常的退落)
過去(被投性)
私たちは何ら理由も根拠もなく、
気づいたらこの世界に投げ込まれています。
この「理由なき存在」の状態を
「被投性(ひとうせい)」と呼びます。
未来(投企性)
現存在は常に未来へと自分を投げ出しています。
本来的なあり方では、
自分の「死」を先回りして覚悟(先駆的決意性)し、
死へと身を投じていきます。
これを「投企性(とうきせい)」と呼びます。
4. まとめ:本来性の時間の本質
本来的なあり方において、
現存在は以下の事実に直面します。
過去(被投性)
根拠のない存在であること。
未来(投企性)
死という「無」へと関わること。
現在
その「無」に直面しながら日常を生きること。
このように、
日常の感覚とは全く異なる「無に直面する時間」を生きることが、
現存在の本来性であるとハイデガーは考えました。
シリーズの展望
ハイデガーはこれらの思想を形成する上で、
キルケゴールの「実存」の考えから
多大な影響を受けています。
次回の動画では、
その背景を探るために
キルケゴールの思想が解説されます。
この動画は、
ハイデガーに多大な影響を与えた
19世紀の哲学者キルケゴールの思想と、
それを踏まえたハイデガー哲学の
さらなる展開(特に「不安」と「無」について)を解説した
シリーズの第7回目です。
1. キルケゴールの実存の3段階
キルケゴールは、
人間が自分自身を取り戻していく過程を
3つの段階に区分しました。
1. 美的実存
楽しさや快楽を追い求める段階。
しかし、常に新しい刺激を求める中で自分を見失い、
虚無感に襲われます。
2. 倫理的な実存
善悪をはっきりさせ、正義や義務に生きる段階。
しかし、
客観的な尺度がなく自己中心主義に陥り、
現実の不完全さに絶望します。
3. 宗教的な実存(単独者)
社会や他人を離れ、ただ一人で神と対峙する段階。
超越的な存在(神)との関係においてのみ、
本来の自分を達成できるとしました。
2. ハイデガーとキルケゴールの共通点と相違点
共通点
「非本来的な日常」
(キルケゴールのいう水平化・大衆)
と
「本来的な実存」
を対比させる図式は共通しています。
相違点
ハイデガーには「神」という発想がありません。
そのため、本来的なあり方は長続きせず、
人間は再び日常の「ひと(交換可能な存在)」
へと退落せざるを得ないと考えました。
3. 現存在を囲む「無」
ハイデガーは、
人間(現存在)があらゆる局面で
「無(否定性)」
に取り囲まれていることを強調しました。
過去(被投性)
理由も根拠もない存在(無根拠)
現在(日常的退落)
本来性がない状態。
未来(投企性)
死という存在の喪失に向かうこと。
無意味
これらに加え、
存在に確固たる意味がないこと。
4. 「不安」の正体
現存在がこれらの「無」に直面した時、
湧き上がる感情が「不安」です。
明確な対象がない
恐怖(特定の対象がある)とは異なり、
不安は何に対してか分からない
「漠とした感情」です。
そのため対処法が分からず、
不気味さを感じます。
無底性(むていせい)
自分の居場所を
底から支えてくれる根拠が
何もないという感覚です。
まとめ
ハイデガーによれば、
本来的な自分を見つめることは、
根拠も意味も底もない
「無」に直面し、
そこから生じる
「不安」を引き受けることです。
この、神に頼らず「無」を直視する姿勢が、
ハイデガー哲学の冷徹でありながら
誠実な側面と言えます。
次回の動画では、
ハイデガーの思想をさらに独自に展開させた
サルトルの哲学について解説されます。
この動画は、
ハイデガーの思想を継承しつつも
独自に発展させたサルトルの「実存主義」と、
ハイデガー本人の思想との共通点および
決定的な違いについて解説した
シリーズの第8回目です。
1. サルトルの実存主義:実存は本質に先立つ
サルトルは、
ハイデガーの思想を「換骨奪胎」し、
独自の哲学を築きました。
伝統的・キリスト教的見方
「本質(設計図)が存在に先立つ」
神があらかじめプランを持って
万物(人間を含む)を作ったという考え方です。
サルトルの見方
「実存は本質に先立つ」
人間にはあらかじめ決められた本質
(何のために生きるか)はなく、
まずこの世に存在し、
その後で自らの選択によって
自分自身(本質)を作り上げていくと考えました。
自由の刑
全てが自分の選択に委ねられているため、
人間は「自由であるという呪い」にかかっており、
それは苦痛を伴うものであると説きました。
2. ハイデガーとサルトルの共通点
脱自的構造
人間は自分自身の外
(未来や可能性)
へと向かうことで存在しているという点
(ハイデガーの「脱自」、サルトルの「投企」)
が共通しています。
根拠の欠如
人間が存在することに、
あらかじめ決められた理由や
本質はないという認識も共通しています。
3. ハイデガーとサルトルの決定的な違い
① 人間中心主義の有無
サルトル
実存(人間のあり方)を問題とし、
人間が自らを選択する
「人間中心主義」の立場をとりました。
ハイデガー
人間個人の人生よりも、
「存在者一般の存在の意味」
を問い続けました。
人間(現存在)の分析は、
あくまで存在の謎を解くための
「手がかり」に過ぎません。
② 未来への向き方(投企の意味)
サルトル(投企)
現在の自分を超えて
「新しい自分」を選び取っていく前向きな行為。
ハイデガー(投企性)
自分自身の存在が「無」であり、
底がない(無底性)という不気味な事実を直視し、
自らを「無」へと開いていく行為。
4. ハイデガーの「展開(ケール)」
動画の最後では、
ハイデガーの思想に
大きな転換が起こったことが語られます。
これまでは「人間(現存在)」
を通じて存在を考えてきましたが、
これ以降は人間という枠を超え、
より広く「存在そのもの」を問うようになります。
その新しい手がかりとして、
ハイデガーが注目したのが
「芸術作品」でした。
まとめ
サルトルがハイデガーの用語を使いつつも
「いかに生きるか」
という主体的・人間的な自由を説いたのに対し、
ハイデガーは人間を
存在の不気味な深淵に
直面させるための装置として捉えていました。
次回の動画では、
このハイデガーの思想が
「芸術作品」へと
どう展開していくのかが語られます。
この動画は、
ハイデガーの思想が
『存在と時間』の
「現存在(人間)」中心の分析から、
なぜ「芸術作品」へと関心を移していったのか、
その「展開(ケール)」の理由と
背景を解説したシリーズの第9回目です。
1. 従来の「事物存在」への批判
ハイデガーは、
デカルト以来の「認識」を基礎とした
存在の捉え方(事物存在)では、
存在の真理にたどり着けないと考えました。
道具製作モデルの限界
ヨーロッパ哲学が伝統的に使ってきた
「本質と存在」という概念は、
実は職人が道具を作る過程をモデルにしており、
全ての存在を説明するには不十分でした。
主観・客観図式の弊害
デカルトのように
「主観(私)」が「客観(対象)」
を確認するという図式は、
世界を単なる
「私の前に立て置かれたもの(表象)」
にしてしまいます。
2. 科学技術の精神と人間中心主義
主観・客観の図式は、
相手の底が知れたと感じさせ、
自然や存在者を支配・制御しようとする
「科学技術の精神」を生みました。
支配の精神
人間が科学を武器に自然を操作する
「人間中心主義」への批判です。
ハイデガーは、
この科学技術による存在の支配に強く抵抗しました。
3. ハイデガー自身の反省
ハイデガーは、
自身の『存在と時間』での分析に対しても、
以下の2つの反省を行いました。
主観への接近
現存在(人間)を分析の出発点に据えたことで、
結局はデカルト的な「主観」に近い立場から
存在を考えてしまっていたのではないかという点。
道具連関の限界
道具として存在を捉えること
(道具連関)も、
使っている最中には意識されない
(注意の対象にならない)
という性質上、
存在の真理を明らかにする手がかりとしては
不適切だったのではないかという点。
4. 芸術作品への転換
これらの反省を踏まえ、
ハイデガーは
「人間が中心となって存在を支配する」
という枠組みから離れるために、
「芸術作品」に注目するようになります。
芸術作品は、
単なる「道具」や「表象」とは異なる、
存在の真理を自ら開示する
独特の力を持っていると考えたためです。
まとめ
ハイデガーの「展開」とは、
人間中心の視点を捨て、
存在そのものが
自らを表す場を探そうとした試みです。
次回の動画では、
この芸術作品を通じて語られる
「世界と大地」
という非常に重要な概念について
詳しく解説されます。
この動画は、
ハイデガーの思想が
「現存在(人間)」から
「芸術作品」へと転換した後の核心部分である、
「世界(ヴェルト)」と
「大地(エルデ)」という概念について、
具体的な作品(ゴッホの絵とギリシャ神殿)
を例に解説したシリーズの第10回目です。
1. ゴッホの「靴」に見る世界と大地
ハイデガーは、
ゴッホが描いた古びた靴の絵を通じて、
作品が単なる「物の描写」
を超えた力を持っていることを説きました。
世界の立ち上がり
私たちは絵の中の靴を通じて、
そこに描かれていない
「農婦の暮らし」
「あぜ道の情景」
「労働の苦労」
などを感じ取ります。
このように、
人々の活動や運命が広がる場を
「世界」と呼びます。
大地の支え
同時に、
靴に付いた泥や素材から、
その生活を根底で支えている、
目には見えない広大な「大地」の存在が浮かび上がります。
2. ギリシャ神殿に見る隠蔽と開示
岩山の上にそびえ立つ神殿の例では、
世界と大地の関係がより鮮明に語られます。
大地(隠蔽されるもの)
岩山の頑丈さは、
私たちが一々確かめることはできませんが、
神殿を支える安定感として感じられます。
大地は
「自らを閉ざし、隠れることによって、上に乗るものを支える」
という性質を持ちます。
これを「隠蔽の開示」と呼びます。
世界(開示されるもの)
神殿は人々が集う開かれた「世界」を象徴します。
しかし、神殿の内部(ご神体)が隠されているように、
世界もまたその中に「隠蔽(秘密)」を抱えることで、
神聖な場所として立ち現れます。
3. 芸術作品の構造:世界と大地の闘争
ハイデガーによれば、
芸術作品とは
「世界」と「大地」が互いにぶつかり合い、
貫き合う場です。
世界
明るく開示しようとする力。
大地
自らを閉ざし、引き込もうとする力。
この対立し合う二つの力が
絡み合う構造そのものが、
芸術作品において露わになります。
4. 「存在の真理」の生起(せいき)
このように世界と大地が切り結ぶ場において、
初めて個々の「存在者」の
本当の姿が浮かび上がります。
ハイデガーはこれを
「存在の真理」が生まれる
(生起する)瞬間だと考えました。
前期(存在と時間)では
「存在の意味」を問うていましたが、
後期ではこの芸術体験のような場における
「存在の真理」へと関心が移っていきました。
まとめ
芸術作品は、
単なる観賞用のものではなく、
隠されていた「大地」と
開かれた「世界」のせめぎ合いを提示することで、
存在の真の姿を私たちに開示してくれる装置です。
次回の最終回では、
この「存在の真理」について
さらに掘り下げられます。
この動画は、
ハイデガー哲学の集大成ともいえる
「存在の真理」とは何か、
そして彼が最終的にたどり着いた
「聴覚的な思考」と
「人間の尊厳」について解説した
シリーズの最終回(第11回目)です。
1. 従来の真理観とハイデガーの真理観
伝統的な真理(一致)
事実と言葉(発言)が一致していること。
(例:雨が降っている時に「雨だ」と言う)
これは「存在者」の性質や法則にのみ注目したものです。
ハイデガーの真理(脱隠蔽)
ギリシャ語の
「アレイテイア(真理)」に遡り、
「隠されているものを取り去り、真の姿を現すこと」
と考えました。
ベールを取り去り、
くっきりとはっきりと存在をあらわにすることです。
2. 真理のダイナミックなプロセス
「存在の真理」は、
一度ベールを取れば
終わりという静止した状態ではありません。
生起(正規)
前回解説された
「大地(隠蔽)」と
「世界(開示)」が互いに貫き合い、
絶えず動き続けている
動的なプロセスそのものが
「存在の真理」です。
3. ハイデガーのさらなる反省:視覚から聴覚へ
ハイデガーは、
自らの「存在を明らかにしようとする試み」すらも、
デカルト的な枠組み(人間中心主義)
に囚われていたのではないかと反省しました。
視覚モデルの限界
「見る(視覚)」ことは、
私から対象へと向かう支配的な行為です。
明らかになったものだけを認める態度は、
存在を支配の対象にしてしまいます。
聴覚モデルへの転換
存在そのものに肉薄するため、
彼は「聞く(聴覚)」
という姿勢を重視するようになります。
声は向こうからやってきて、
私たちを包み込むものだからです。
4. 存在の声と人間の尊厳
最終的にハイデガーは、
存在を「どこからともなく響いてくる声」
のようなものとして捉えました。
耳を澄ます
存在は支配する対象ではなく、
耳を澄まして聞き取り、
その開示に身を委ねるべきものです。
真の尊厳
全てを自分で選択し支配しようとする
「人間中心主義」を捨て、
存在から送られてくる声に応答し、
その導きに身を委ねること。
それこそが人間に与えられた真の尊厳であると説きました。
5. 存在への究極の配慮
ハイデガーは、
言葉にして対象化すること自体が
存在を逃してしまう行為であると考え、
最終的には
「存在(Sein)」
という言葉に
「×印(バツ印)」
をつけて表記するまでに至りました。
これは、
言葉を超えた存在の深淵に
誠実であろうとした苦肉の策であり、
彼の思索の極致を象徴しています。
シリーズの締めくくり
ハイデガーの哲学は、
私たちが日常的に
「誰でもいい誰か(ひと)」
として生きる空疎さから出発し、
死を見つめることで
本来の自分を取り戻し、
最終的には宇宙の根源的な
「存在の声」に耳を澄ます
静謐な境地へと至る壮大な旅でした。
この動画は、
ハイデガー思想の解説シリーズ
全11回を終えた後の
振り返り動画です。
解説者の井上さんが、
貫成人著『ハイデガー』を読んだ感想や、
自身の活動・価値観と
ハイデガー哲学との結びつきについて、
パーソナルな視点で語っています。
1. 入門書としての評価と活用法
貫成人著『ハイデガー』
ハイデガーが何を考えていたのかを
ワクワクしながら理解できる、
非常に優れた入門書として絶賛されています。
次へのステップ
この本で関心を持った人への推奨本として、
ハイデガー自身の著作である
『存在と時間』
(中公クラシックス)や
『ヒューマニズムについて』
(ちくま学芸文庫)
が挙げられています。
2. 映像作品への関心と「脱自(だつじ)」
井上さんは、
趣味である写真や動画撮影の経験を
ハイデガーの「芸術作品」論と重ねて語っています。
何気ないものへの惹かれ
石ころのような、
普段は「道具」として
隠れて支えているだけの存在が、
作品として「主題化」されることに魅力を感じます。
視点の反転
自分の目線ではなく
「物の視線」から光景を捉えることで、
自分自身が外へと投げ出される「脱自」の感覚を
アートから得ていると分析しています。
3. 「答えがないこと」への安心感
ハイデガーが説いた
「死に答えはない」という考えに対し、
井上さんは不思議な
「安心感」を覚えると言います。
隠蔽の拒否
不安を避けるために無理やり
「答え」という蓋をするのではなく、
答えがない事実がそのまま開示されている
(隠蔽の開示)状態に、
安らぎを感じると述べています。
4. 「面白い」で世界を満たす構造
井上さんの活動コンセプト
「面白い世界で満たす」も、
ハイデガーの「世界と大地」の構造で
説明されています。
大地としての学び
分子栄養学、
哲学、
対話(コミュニケーション)などは、
人生(世界)を支えるための
目に見えない「大地」であり、
土台となる身体や思考の健全さを指します。
世界としての表現
その土台の上に築かれる「楽しい活動」が、
開かれた「世界」です。
この二層構造が絡み合うことで、
面白い世界が実現すると考えています。
5. 「反省(リフレクション)」の重要性
ハイデガーが自身の思索を常に振り返り、
修正していった「謙虚な姿勢」に
深い親近感を寄せています。
Think slowly, Act quickly, Reflect repeatedly
井上さんは既存の格言に
「反省を何度も繰り返す」ことを付け加え、
これこそが思索を深めるために
不可欠な態度であると強調しています。
6. 流行(ベストセラー)を避ける理由と交換可能性
最後に、
井上さんの個人的な傾向として
「ベストセラーをあえて読まない」
理由を、
ハイデガーの「交換可能性」の観点から考察しています。
誰もがやっていることは
他の人に任せ、
自分はまだ開拓されていない
「交換可能性の少ない領域」を扱うことで、
世界の多様性を豊かにしたいという願いを語っています。
まとめ
この動画は、
難解なハイデガーの哲学を、
自分自身の日常生活や価値観、
そして「面白い」という感覚に引き寄せて
解釈することの楽しさを伝えています。
哲学は単なる学問ではなく、
日常と距離を置き、
自分を見つめ直すための
最良のツールであると締めくくっています。